大アービトラージ時代の終焉

Rebright Partners Pte Ltd.

世の中は、アービトラージ(裁定取引)であふれている。

人類の歴史は、アービトラージの歴史であった、といっても過言では無いかもしれない。

本来アービトラージとは金融の世界における裁定取引(さや抜き)のこと、ある財が東京で80、シンガポールで90で取引されているなら、東京で買ってシンガポールで売る。現在100で取引されていて、先物に90の値段が付いているなら、先物を買って現物を売る。

それが典型的なアービトラージだ。

もっとも現在はそんな「ウマイ話」はそれほど転がっているわけではない。

それどころか、アービトラージは急速な勢いで、この世から無くなろうとしている。

 

なぜ昔にくらべ、裁定取引の機会が減ったのか?

答えは簡単、世界中で起こっている情報の非対象の解消(均一化)である。

裁定取引は情報の非対称、つまりある人は知っていて他方は知らない、という状態により生まれる。そしてこの20年弱、驚異的なスピードで情報の非対象の解消が進んでいる。

交通網の発展や世界貿易の拡大など様々な要因があろうが、大きな要因はインターネットだろう。一方向であり、検索性も無いテレビは、最大公約数に向けた情報にならざるを得ない。

有料の衛星放送等である程度の専門性は出せるが限界はある。せいぜい数百チャンネルだ。しかしインターネットは違う。無限大である。極論すれば人間の数だけ、情報の量も、分野も、レベルも存在する。

1994年のインターネットの実質的誕生から、00年代前半のソーシャルメディアの勃興によるパーソナルパブリッシングの一般化を経て、たかだかこの20年弱で世の中は一変した。

 

だれでも米国の全上場企業の詳細なディスクロージャーを無料で、家のパソコンや携帯電話で閲覧できる。

第一線の医学者が、とある難病について詳細にブログで公開している。

アフリカの学生が、息を飲む素晴らしいダンスパフォーマンスを動画サイトに掲載し、世界が注目する。

 

それが我々が住む2012年だ。

その結果何が生まれたか?

アイデアや知識の相対的な価値低下、そして人類の富の再編成だ。

 

タイムマシンはもう、無くなった。

シリコンバレーのビジネスモデルは、一夜にして世界中の若者に模倣される。もはや「それは素晴らしいアイデアだね!」ではなく、「そのアイデアは、XYZとABCの組み合わせだね」となる。

あなたのそのアイデアは、必ず世界のどこかの誰かによって、既に試されている。逆に言えば、誰かがそのモデルで既に成功/失敗しているという意味において、「Proven」な状態にあるのだ。(せっかくProven なのに、知らないというだけで機会を逸している例もまた散見するのだが…)

過去、ソフトバンクの孫正義氏は「タイムマシン経営」と言った。米国で成功したビジネスモデルを日本に輸入し成功させた。それはすなわち、産業の進展スピードの差を利用した「情報のアービトラージ」だ。

日本と米国における情報の非対称性があったから実現した。それがなくなった今、その裁定取引は成り立たない。

 

富の大移動は世界をフラット化するまで進む

アービトラージ機会の解消により、我々がより甚大な影響を及ぼす事象は、「富の移動」だろう。

そしてそのインパクトをもろに受けるのが、先進国の中間層、つまり我々日本人の大半だ。

世界中で今起こっていることは、「先進国の中間層から、新興国の中間層への、富の移動」である。

例えば、数か月前まで連日アメリカのテレビや新聞でトップ報道された「Occupy Wall street」は、格差への不満と言われていた。確かに格差はある。格差を表すジニ係数も上がっている。

しかしそれ以上に新興国と先進国の格差は縮んでいる

深センやバンコク、ジャカルタ、セブ、ホーチミンにこの10年ほど行ったことが無い人は、それらの都市の一般の人々がレストランで何を食べ、ショッピングモールで幾らの物が売られているかを見たら驚くだろう。 台湾が未だに新興国だと思っている人は、危機感を持ったほうが良いだろう。これらの都市は、今まで日本が海外生産拠点やオフショア開発拠点としてきた場所である。

それはすなわち労働力のアービトラージだ。アジアの新興国で安く労働力を買って、付加価値を生成し、それをより可処分所得の高い日本人に販売するという、生産者/消費者のジオグラフィカルなアービトラージ。しかし裁定取引とはそもそも、論理的にはかならず解消される運命にある。冒頭の例で言えば、現物100円 先物90円なら、必ず2者が同じ価格になるまで、現物は売られて下がり、先物は買われて上がる。

労働力のアービトラージとて、そうなる運命にある。世界中がベトナムやインドネシアの安い労働力を買えば、当然それは上がる。現に都市部ではものすごい勢いで賃金が上がっている。一方で、例えば日本のある企業が今まで10名を国内で採用していたものを、7名が国内、3名は海外で採用したとする。仮にこれが日本全体で起きたとすれば、日本の雇用市場において3割の需要が減ったことになる。需要が減ると価格は下がる。 つまり給料は減る。事実、それは製造業において起こっている。のみならず、ソフトウェアプログラミング、医療介護、デザイン、OAワークなど、サービス業においても、部分的に起こっている。

また当然、逆も起こっている。

東京の都心部でコンビニや居酒屋に入ると、日本人の店員より外国人労働者が多い事に気づくはずだ。彼らは自国の労働市場で自らを安く売る代わりに、日本の労働市場で高く売りに来ている。

これは、日本の労働力マーケットに海外から安い供給が大量に入ったことで市場価格が低下する事、つまり日本人の給料が下がる事に直結する。

もちろんこれは極論であり、実態はそこまで単純ではない。

例えば多くのサービス業、販売業や、広告業、印刷業などにおいては、そこに住み、その国の言葉を自由に扱えない労働力には簡単に代替されることは無い。しかしその場合でも、上記の「裁定取引の解消による労働価格の低下」には少なくとも間接的な影響を受ける。なぜならマクロでみれば、製造業セクターが吸収していた雇用がサービス産業へ移行するのだから、その分受給バランスは労働価格の低下に働くからだ。

好むと好まざると、我々はそのような時代を生きている。なかなかにシビアな時代である。

しかしそれを金融街の金持ちや政治家のせいにしてみたところで、これが世界中で起きている歴史的な流れだとすれば、誰かが状況を好転してくれるような事は期待できないだろう。 それはアメリカに住んでいても、中国に住んでいても、さして変わらないだろう。 シビアな時代を、個々人がしたたかに生き抜いていくしかないのだろう。