未来をつくる、ということ

Rebright Partners Pte Ltd.

 

「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」 - アラン・ケイ

「未来は知りえない、しかし自ら創る事はできる。成功した人・企業はすべからく、自らの未来を自らの手で創ってきた」 - ピーター・ドラッカー

 

「あしたはどんな日が待っているのかなあ」というのは、せいぜい小学校くらいで卒業し、誰もが多かれ少なかれ「明日はこうして過ごそう」という何らかの見通しや目標をもって日々を過ごしている。
「明日」、「将来」、という言葉を使うとき、我々は何らかの見解を持って、一人称で語る。
しかしそれが「未来」という言葉になった瞬間、一気に漠然として、「我が事」ではなくなる。もっと言えば、思考停止になる。

辞書を引くと未来(Future)という言葉には「現在のあとに来る時」としか定義がない。
つまりあくまで時間を表す概念でしかない。

にもかかわらず、我々が「未来」という言葉で語るとき、それは既に「自分以外の誰かによって創られる状況」の事を指している。
そのように「未来」という言葉には極めて受動的な響きがある。

しかし未来は、まぎれもなく誰かの手によってつくられる。

私は大変幸運なことに「未来をつくること」に少しずつ参加させてもらえる仕事、ベンチャーキャピタルという職業に就いている。

この仕事をしていてつくづく思う事がある。
それは、「未来を自らの手でつくる」という事が、冒頭の賢人たちの言葉の通り実際には可能であるという事、にもかかわらずほとんどの人が未来を所与のものとして受動的姿勢でいる事、しかしながらそれとは真逆の態度で、未来に能動的にがむしゃらに心血を注いでいる人が現に存在し、そして彼らがいかに巨大な成果を上げているか、という点である。

例えば米国で、とある目新しいプロダクトが開発される

そうすると世の中の99.9%の人々、そしてメディアも、評論家も、こういう反応をする。

 「Google Glassは次の潮流になるのか?」
 「Bitcoinは普及するか?」

しかし、それをつくっている人達のマインドセットは、それとは180度違う。

違うというのは、「それが次に来る」というのを確信している、というのとも全く違う。

彼らは、「こういう世の中になり、こういうものが普及するだろうから、それを誰よりもいち早く手掛ければ成功するだろう」という起業家でもなければ、「その波に乗っかれば儲けられるだろう」という投資家でもない。

そういう人は、成功する事はあっても、世の中の不連続な「未来」を産み出すことは無い。

ではどういう態度かと言うと、「自ら創る」という姿勢、この一言に尽きると思う。

「それが次に来ると信じる」ではなくて、「その次を自らつくる」である。
まさに「未来を自ら創る」という言葉で置き換えても良い。

「Bitcoinが次に来るだろうからそれに賭けてみよう」ではない。
「Bitcoinを次世代の金融プラットフォームにすべく自らの手で創り上げよう」であり、
「パソコンのキーを叩くのではなく、体の一部として機能するコンピュータがあるべきだ」、
「人は電気で走るかっこいい自動車に乗るべきだ」、
「人類はもっと宇宙に行くべきだ」、
そうである「べき」なのだから、そうなるに決まっているし、であれば自らそれをつくらない理由などない。

そういう考え方、姿勢である。

だから、自らの財産(最も貴重な財産は彼らの時間である)を捧げて、本気で作る。
そして、投資家も「それに乗っかって儲けよう」、ではなく「よし彼らと一緒に我々の手で作ろう」と決め、何百億ものベンチャーマネーを、諦めずにとことんつぎ込む。

このような考えと行動をする人たちが創ったものが、今日私たちが当たり前のように使っているパソコンであり、スマートフォンであり、これから当たり前のように使われるウェアラブルデバイスでありVR技術であり、決済手段であり、様々なプロトコル、ツールである。

人はそれを未来と呼び、真の起業家と投資家はそれを自らの仕事とする。

未来は、まぎれもなく誰か人間の手によってつくられている。