フィルターバブル

Rebright Partners Pte Ltd.

先日、Twitterでこんなやりとりをした。

 

フィルターバブルとは、この著書により有名となったコンセプトであり、わかりやすく言えばパーソナライズ、という言葉に近い。
例えば私の場合を例にとるとこういう事だ。
東南アジアベンチャーキャピタル投資をやっている私がソーシャルメディアにおいて繋がっている人々は、「スタートアップ」関係者や、「東南アジア」に何らかの関係や関心をもっている人が多い。
であるからして当然、私のタイムラインは「スタートアップ」と「東南アジア」に関係する話題に事欠かない。(もちろんご多分に漏れず食べ物の投稿は多い)

そうると大変便利な事に、タイムラインを毎日チェックさえしていれば、「自分が知るべき情報」は概ね自動的に収集され、取り逃すことはまずない。
「シンガポールでXXXが買収された」
「(業界キーマンの)XXXXさんがどうした、こうした云々」

という類の情報は、それに対する他の関係者の解説コメントという素晴らしいオマケ付きでもって、もれなくドンドン舞い込んでくる。

もちろんソーシャルメディアのみならず、Googleアラートやブログフィードなどで自分が知るべき情報は、毎日何百何千と入ってくる。

実に便利である。

しかし実はこの「自分が知るべき情報」というのが、ちょっとしたクセモノだ。

それは例えばこういう場面で現れる。

既述の通り「東南アジア」に関する大量の情報に日々さらされている私が、例えば

「大手XXX社がインドネシアに進出」

というニュースを目撃したとする。
すると私は

「はやりな、日本の東南アジアへの進出動向は高まるばかりだ」

と思う。
ちょうど街中をドライブしているときに自分の車と同じ車種の車ばかりが目に付き「この車多いなー」という感覚に近いのかもしれない。

そしてそのような情報が毎日大量にインプットされるので、情報武装、理論武装はどんどん高まっていき、自分の認識や意見が強化されていく。

これ自体は一概に悪いとは言えない。
まともな理性と常識を備えていれば(ほとんどの人がそうだ)、間違った意見にどんどん突き進む人は多くは無いだろう。
たいていはその人なりの職業上の関心や知的好奇心などの対象物がどんどん研ぎ澄まされていく事となる。
それが現在のインターネットが人類にもたらしている恩恵ともいえるだろう。

しかし問題は物事はすべからく多面的であるという事だ。

自分が感度を高く持つある側面だけをみると真実であっても、もう一方の側面には「別の真実」が存在する。
そしてそれは一つや二つではなく、重層的かつ複雑に絡み合っているのが実世界というものだ。

例えば先ほどの、「大手XXX社がインドネシアに進出」という事象について

側面A: 日本の東南アジアへの進出動向は高まるばかり

というのが私の認識した事実であるが

側面B: 「中国の地政学的なリスクの高まりや経済成長の鈍化による退避先という消極的な理由」

という別の真実も存在するだろう。
あるいは、

側面C: 私の知らないその産業やその会社の個別の事由

という事実も十分ありえるし、

側面D: 実は大手XXX社は世界100か国で事業展開しておりインドネシアは101国目の進出先、むしろ他の地域に比べ遅いし投資規模も小さい。

というオチすら、あるのかもしれない。

そのほかにも側面XYZまで、たくさんの真実があるのかもしれない。
にも関わらず「東南アジア」に対する強いフィルターがかかった私の眼には、側面Aだけがライトアップされて見えている。
そのライトがあまりに明るいと、側面B以降が暗くて全く見えない、という場合すらあるかもしれない。

これがクセモノの正体だ。
便利すぎるという事は、結局は思考停止と裏腹なのかもしれない。

結果としてフィルターにかかった情報にしか接しなくなるような便利な情報ツールを多用している私のような人や、「ソーシャルメディア依存症」のようになってしまっている人は、ヒットチャート音楽しか聞いていない人やテレビばかり見ている人と同じような危機感を持つべき時が、既に来ているのかもしれない。

「書を捨てよ、町に出よう」

寺山修二がそう語った45年前と、世の中はさして変わらないのかもしれない。