2025 年頭所感

皆様の御陰様をもちましてこの2025年という、いささかSF的な響きすらある新年を迎える事が出来ました事、厚く御礼申し上げます。さてここに例年通り今年(を起点とするこの数年)の世界観を備忘録的にしたためることをもって年頭所感と致します。今年のそれは以下の3つだろうと考える次第です。

1. ディープテックな世界

テクノロジーやスタートアップに関連する職業に就く身として、今の世界で最も顕著な潮流は何か、と問われたらまずこれを挙げる。ディープテックの台頭である。ソフトウェア一辺倒の世界からリアルでハードな世界、プログラミングに終始する世界から物理工学や生化学らが実社会に適用される時代、ビジネスがエンジニアリングのみならずサイエンスと交差する時代である。それを象徴する事象のひとつが近年のノーベル賞受賞者の顔ぶれであろう。OpenAI創業者のひとりイリヤ・サツキバーらの師として名高いジェフリー・ヒントンやGoogle/ディープマインドのデミス・ハサビス、ジョン・ジャンパー、mRNAやゲノム編集CRISPER-Cas9の第一人者で創薬ベンチャー創業者ジェニファー・ダウドナカタリン・カリコらこの数年のノーベル主要賞の受賞者は軒並みサイエンティスト兼起業家、かつ著名なスタートアップのそれである。ビジネスとサイエンスがオーバーラップしディープテックが主役化している証左であろう。未上場ユニコーンの世界トップ集団や近年の資金調達額トップランカー達の顔ぶれもSpaceXやOpenAI、Groqらの宇宙、AIファウンデーションモデル、半導体、創薬らが名を連ねる。

Software is eating the world

インターネットブラウザの産みの親で今では世界一級のベンチャーキャピタリストであるマーク・アンドリーセンがそう宣ったのは14年前だ。その後SaaS(ソフトウェア・アズ・サービス)ブームを経て文字通りソフトウェアサービスは世界を食い尽くした。その結果多数のユニコーン、上場企業が生まれた。が食い尽くした結果もはやほとんど同じでほんの少しだけUI、UXが洗練された程度の改善くらいしか余地は残っていない。つまりソフトウェアはもうコモディタイズされ、ハイテクでもなければ技術的差別化も優位性もそれそのものでは築き得ない一般消費財とさして変わらない代物となった。90年代のドットコム時代から2000年代半ばのスタートアップ全盛期を経て2010年代からのユニコーン量産時代まで、その主役はソフトウェアだった。その30年ほど続いたソフトウェア時代の終わりの始まり、ディープテック時代の始まりが2025年あたりという事に、事後的に産業史を俯瞰する人々にそう見られる事になるだろう。

 

2. 超人の世界

フリードリヒ・ニーチェが「ツァラトストラはかく語りき」等の著作で提起したÜbermensch、超人。今これが世に強く求められ、輝く時代となっている。なぜか。これは第一点目のディープテックの世界との表裏一体の関係にある。ディープテックとはソフトウェアの世界と違い時間と資金、そしてリスクが桁違いに甚大である。つまり途轍もなく困難なしろものだ。故に「優秀な人」くらいではなかなか成立しづらく商売ベースにも乗りづらい。
そこで超人の登場である。ニーチェによる超人の定義とは第一に世に存在しない新しい価値を創造する者第二に既存の倫理観から解き放たれた者、である。普通の規範で物事を考える者に偉業はなし得ない。理屈で考えてまず無理だ、と人々が口を揃えて言うような、途轍もなくリスクが高く膨大な金や時間がかかるような事、しかしながら実現すると世界に大きなインパクトを与える事、そのような事(のみ)を大真面目に着想する、のみならず実際にそれを気が狂うほどの切迫感をもって何年も何年も無数の失敗の屍を見続けた後に最後に成功するまでやり遂げる。その狂気は往々にして世に理解されず時に石もて批判されるほど独自の価値観や倫理観すらも提起しつつ突き進む。こういう者が例えばロケットの再利用により圧倒的な宇宙ビジネスの効率化を実現し事業を黒字化したり、化石燃料を一切使わない電気で走る車を誰よりも多く世界中の道路上に走らせたりする。そう、現代の超人の代表例がイーロン・マスクであろう事は彼を嫌いであろうが好きであろうが否み難いであろう。

また恐らくそれに近い存在になりつつあるのがOpenAIにより人類の生活・仕事を一変させつつあるサム・アルトマンだろう。アルトマンは他にも核融合のHelion Energyや核分裂炉のOkloの取締役会長を務めていたり、人類とボットと別ち地球上の全人類を目の虹彩を使って個人認証せんとするWorld(旧World Coin)を創業したりと幾多のビジネスに関与している。このように多岐にわたる分野の事業に関わる事も超人タイプの人間の特徴である。おそらく一ないし半世紀にほんの一握りしか現れないそれらの超人、例えばダビンチやエジソン、グラハム・ベル、ジョン・ロックフェラーなどがそうであるが、そのような人々が人類の歩みを急加速させる。ソフトウェア時代にはビル・ゲイツに始まりジェフ・ベゾスやザッカーバーグといったビジネス界のヒーローは多数いた。がそのような人々に「超人」という印象を人々が抱くかといえば必ずしもそうでもないだろう。それはつまり彼らはソフトウェアの世界の住人であり、ソフトウェア、コンピューティングの中に終始するビジネスとはそれまでの延長上の技術進展であり「他の誰かよりもうまくやるゲーム」だからであろう。しかしディープテックは違う。「それまでにない新たな価値」を「既存の価値観や倫理観すらからも解き放たれて」、不連続な何かを新たに創造するというやや人間離れしたところのある所業だからだ。そのようなディープテック全盛時代を迎えるこれからの数年、数十年は、マスク以外にもあとほんの一握りではあるだろうが、我々人類は超人を同時代で拝める貴重な時代となるのではなかろうか。

一方でそれら超人とは、物の本を紐解くまでもなくほぼ例外なく皆一人の人間としては精神的な不安定性を備えている事は知られている。従ってゴシップが耐えなかったり、世間に対して何かと交戦的な言動が目立つ。そして世間はそれに振り回される。イーロン・マスクがTwitterという言論空間を4兆円もの大枚を叩いて買収し、好き放題やった事は記憶に新しいし、今度はアメリカという世界で最も影響力ある国の政治にまで手を出してしまった。そのように、時に「眉を顰める」ような事をしでかすのもまた超人の特徴である。がしかしそれは一方で、首の骨が折れるほどのスピードで突如文明進化を社会にもたらすような革新をもたらす者に対して人類が支払うべき代償なのかもしれない。

 

3. プロヒューマン時代

三年前のこの年頭所感において、ポリティカル・コレクトネスへの反動を予測した。その後世界(特にアメリカ)はその予測通り一気にそちらに舵を切り反ESG、反DEIのムーブメントが起きた。EVの販売台数は踊り場を見て、ESGと銘打った投資信託もETFも全く売れなくなり、代替タンパク食品系スタートアップはどこも倒産や株安に喘いでいると思えば、ウォルマートトヨタすらも多様性プログラムからの撤退を強いられてる。その極め付けが今回の大統領選挙でありトリプルレッドだろう。新政権が登用したエネルギー庁長官のクリス・ライトという人物は、環境破壊が激しいからとハリス民主党が強く批判してきたクラッキングという掘削方法により化石燃料を掘り出す会社のCEOである。氏はかつて「この世に気候変動危機は存在しない」と豪語している。

更にはこうした社会・政治的な潮流が今、いわゆるテクノリバタリアンと呼ばれる人々の思想と相互にアンプリファイしている。つまり瞬く間に時の人となった副大統領JD・バンスであり、イーロン・マスクと共同で政府効率化省の舵を取るヴィヴェック・ラマスワミであり、新政権にAI及びクリプト分野の担当高官に指名されたデビッド・サックスであり、それら全員のパトロンまたは兄貴的存在であるピーター・ティールであり、テクノ・オプティミズム宣言」と称して共和支持を打ち出したマーク・アンドリーセンらである。いずれもテクノロジストでありキャピタリストの経歴を有する彼らは物理法則に忠実なリアリストであり、そのような視点でもって民主主義を眺めそして参加するにあたり、今回トランプ共和党を積極的に支持した人々である。

ただし、では今回彼らが世界を動かしたのかと言えばそうではなく、別に新政権が彼ら一握りの富を有する特殊な考え方の人々により誕生したという事でもないだろう。事実、上記テクノリバタリアン的著名人の言動は目立つから強く感じるものの、少なくとも数で言えばテック大立物や大物投資家の間では実際はハリス共和党に与した人のほうがはるかに多かったし、献金額もしかりである。

つまり単に多くのアメリカ人がそのような考え方だったから、に過ぎないのであり、それに新政権がミートしたから選ばれた、つまり民主主義の王道を地で行ったに過ぎないと言えば過ぎないだろう。

ともあれ、こうして新たに社会に定着しようとしているこの新しいパラダイムをどう捉え、どう名付けるべきだろうか。

私にはそれはプロヒューマン、と名付けるのが適しているように思える。人類が普通にあるがまま生存し、子孫を残し、拡大再生産するという数千年、数万年営々と続けてきた行為。これに対してESGやDEI的営みは時として「行き過ぎである」と感じる人々との不用意な衝突を引き起こす局面があった。環境活動家など「人類の生存自体が自然環境に有害だ」と大真面目に語る論者すらいるわけであるが、それは大袈裟だとしても、これを我慢しろあれを変えろと言い続けると人間の活動には抑圧的方向に作用する事は否み難い。あるいは平等やインクルージョンというと響きは良いがそれらによる玉突き現象により憂き目に遭う人々が生じる事もまた不都合な真実だろう。そのような理屈が行き過ぎて肝心の目の前のひとりひとりの人間性や人間の活動が否定や抑圧をされかねない、という状態からもう少し振子の針を反対側に戻してバランスを取ろう、と試みる一連の潮流をプロヒューマン、親人間的と評したい。それは平等や多様性や環境配慮をやめろと言うのでは無論なく、さりとてそれらが時に度が過ぎて知らずのうちに人間性が抑圧される事も無い世界観の事である。

このような潮流につきメディアを紐解くと Anti-ESGやAnti-DEIといった、反(アンチ)云々で表現する言論が多数出てくる。しかしアンチという表現はそれ自体が自身以外の誰かに対する否定的な意味がどうしても含蓄されている。私は親(プロ)云々で表現したい。では何に対してプロなのか、と言えばそれは人間、人間性に対するそれであるべきではなかろうか。プロ環境も良いがプロ人間、平等も公正も大事だがひとりひとりの自由や尊厳あってのそれ。

その点アメリカはしばらくは剣呑な状況が続くだろうが、総じて人類がプロヒューマンな方向性を対立的でなく好戦的でなく、穏やかに、適切に模索する2025年であって欲しいと願う。

 

2025年 元旦 オーストラリア メルボルンにて 蛯原 健